概要
武田信玄は、甲斐国の守護大名で、甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主です。
先代の信虎期に国内統一が達成され、信玄も体制を継承して信濃に侵攻を始めます。その過程で越後国の上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大しました。
晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没しました。
分国法「甲州法度之次第」を制定して分国統治の拠り所とし、検地や棟別調査を実施して家臣団の増強を図り、才覚ある家臣を奉行や各地の城将として配置するなど手堅い分国支配を行いました。また城下町や交通路の整備、治水、新田開発などにも力を注いでいます。
「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれました。
簡易年表
- 1521年 1歳 甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。
- 1541年 21歳 父・信虎を駿河に追放し、武田家の第19代目当主となる。
- 1547年 27歳 甲州法度之次第(信玄家法)55条を定める。
- 1553年 32歳 葛尾城を攻め、村上義清は越後へ逃れる。第一次川中島の戦。
- 1555年 35歳 川中島において上杉謙信と対陣。第二次川中島の戦。
- 1557年 37歳 第三次川中島の戦。
- 1561年 41歳 上杉謙信と川中島で最大規模の合戦となる。第四次川中島の戦。
- 1564年 44歳 上杉謙信と川中島で再び対峙。第五次川中島の戦。
- 1572年 52歳 将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じ侵攻開始。三方ヶ原の戦で徳川家康を破り、西へ向かう。
- 1573年 53歳 三河に侵攻し、野田城を落とす。持病が悪化し、軍を甲斐に引き返す途中の三河街道上で死去。