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未分類

  • 2月 15, 2020
  • 3月 14, 2020

真田幸村という名の武将はいなかった

真田幸村は大坂の陣で徳川家康を切腹寸前にまで追い詰め、「日本一の兵(つわもの)」として他大名からも高く評価された人物です。 そして江戸時代には、娯楽作品に勇猛果敢な活躍が描かれ、庶民の人気を集めました。 ところが、真田幸村が周りから「幸村」と呼ばれたことはなく […]

  • 2月 15, 2020
  • 3月 14, 2020

豊臣秀吉は「さる」と呼ばれていなかった

豊臣秀吉が主君織田信長に「猿」と呼ばれて喜々として返事をする姿は、創作物によく登場するおなじみのシーンで、本やテレビで見たという方も多いでしょう。 しかし、信長に秀吉がそう呼ばれたという記録は残っていません。 信長が秀吉の妻ねねに送った手紙には秀吉のことを『は […]

  • 2月 15, 2020
  • 3月 14, 2020

毛利元就の「三本の矢の教え」は創作だった

毛利元就の有名な逸話に「三本の矢の教え」があります。 病床に伏していた元就は、死の間際に三人の息子を呼びました。 長男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景それぞれに一本の矢を渡し、「その矢を折ってみよ」といいました。 三人は難なくその矢を折りました。 すると今度 […]

  • 2月 15, 2020
  • 3月 14, 2020

上杉謙信は塩を送っていなかった

「敵に塩を送る」ということわざがあります。 敵対関係にある相手でも苦しんでいるときには助けてあげるという意味で使われますが、上杉謙信の有名な逸話が由来になっています。 1567(永禄10)年、武田信玄が甲斐・相模・駿河の三国で結ばれていた三国同盟を破り、駿河に […]

  • 2月 15, 2020
  • 3月 14, 2020

織田信長が最初に謀反を疑った意外な人物とは

本能寺で宿泊していた織田信長が、謀反に気付いて最初に名前を挙げたのは意外な人物でした。 明け方午前4時頃に、急にあたりが騒がしくなり目を覚ました信長ですが、信長も小姓衆もこの喧噪を最初は下々の者の喧嘩と思っていました。 しかし、しばらくすると鬨の声が上がり、御 […]

  • 2月 15, 2020
  • 3月 14, 2020

川中島の戦いで上杉謙信と武田信玄の一騎打ちはあったのか?

川中島の戦いで上杉謙信と武田信玄の一騎打ちが行われたということはあまりにも有名な話です。 川中島の古戦場には馬上から剣を振り下ろす謙信とそれを軍配団扇で受け止めようとする信玄の銅像が立っています。 しかし、この一騎打ちが本当に行われたのか疑問視されています。 […]

  • 2月 13, 2020
  • 2月 16, 2020

石川五右衛門が残酷な処刑をされた理由

豊臣秀吉の時代に出没した稀代の大泥棒・石川五右衛門の名は、多くの創作物が広まっているので知らない人はいないでしょう。 五右衛門に関する史料は少なく、その存在は長く疑問視されてきました。 しかし、スペインの貿易商ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンの記した『日本 […]

  • 2月 2, 2020
  • 3月 14, 2020

「しかみ像」は家康が三方ヶ原の戦い後に描かせたものではなかった

徳川家康が、死を覚悟した戦いの一つに武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いがあります。 室町幕府15代将軍・足利義昭の織田信長討伐令に応じた武田信玄が、遠江国・三河国に大規模な侵攻を開始し、浜松城にも攻めてくると危惧した家康は籠城戦に備えていました。 しかし、信玄は浜 […]

  • 2月 2, 2020
  • 3月 14, 2020

武田騎馬隊は本当に存在したのか

騎馬隊というと、鎧兜を身に着けた武士たちが見事な馬にまたがり、武将の号令で一斉に突撃していく。 そんなシーンを思い浮かべる方が多いと思います。 しかし、この騎馬隊が本当に存在したのか疑問視されています。 騎馬隊が存在しなかったのではないかといわれる理由をいくつ […]

  • 2月 2, 2020
  • 3月 14, 2020

明智光秀は「敵は本能寺にあり」と言わなかった

織田信長に反旗を翻した明智光秀が、自ら率いる軍勢に向かって「敵は本能寺にあり」と発し、それを鬨の声として大軍が本能寺に向かっていく。 創作物でよく見かける光景で史実だと思われていましたが、実は後に創作されたものでした。 光秀配下の武士本城惣右衛門が晩年に親族に […]