明智光秀 簡易年表

概要

明智光秀は、主君である織田信長を討った武将として有名です。

土岐氏支流の明智氏に生まれたと伝わっていますが、生年や生い立ちに不明な点が多く、父親の名前も伝わらないなど、土岐氏の中でも史料の残らない低い身分だったと思われます。

斎藤義龍に明智城を攻められて後、越前国の朝倉義景に仕え、義景を頼ってきた足利義昭と出会い幕臣となりました。その後、織田信長に取り立てられ重臣となりますが、謀反を起こし信長を自害させます。

天下人となってわずか13日後には、備中より戻った豊臣秀吉との戦いに敗れ、逃げる途中で落ち武者狩りにあい殺害されたといわれています。
謀反を起こした理由は諸説あるものの、どれも決定打に欠け結論に至っていません。

和歌や茶の湯を好む文化人であり、また内政手腕に優れ、善政を布いたことから領民に慕われていました。

簡易年表

  • 1528年 1歳 この頃に生まれたとされる。
  • 1566年 39歳 足利義昭の幕臣となる。
  • 1568年 41歳 足利義昭と織田信長を会見させる。
  • 1571年 44歳 織田信長に従い、比叡山焼き討ちを行う。
  • 1572年 45歳 坂本城築城。居城とする。
  • 1573年 46歳 本願寺勢が籠る今堅田城を攻略。
  • 1575年 48歳 丹波方面の攻略を命じられるが、敗退する。
  • 1577年 50歳 松永久秀の居城である信貴山城を攻め破る。
  • 1578年 51歳 丹波国に亀山城を築城し、二つ目の居城にする。
  • 1579年 52歳 丹波国にある八上城の波多野秀治、秀尚兄弟を攻めて落城させる。
  • 1582年 55歳 本能寺に宿泊中の織田信長を急襲する。中国地方から帰ってきた豊臣秀吉と対決するが敗退。敗走途中、伏見小栗栖の竹藪で落人狩にあい死没。
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